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息軒をめぐる人々

安井家のルーツ

安井家のルーツは出羽の国(山形県)にあり、当時は安部を名乗っていました。その後1200年代、貞朝の代に上州(群馬)の安井村に移住してきて安井を名乗るようになります。さらに足利尊氏の筑紫下向の際、第8代家朝は畠山直顕に属し、軍功により客臣として伊東家に仕えるようになります。
初めて清武にやって来たのは第18代の朝秀だったと考えられます。以降安井家は兵法の指南役や清武郷の諸奉行職を務めるなど重用されました。しかしながら息軒の祖父に当たる朝長が早世したため、滄洲の時代(息軒幼少時)は生活が厳しかったと考えられます。
幼かった息軒は兄朝淳とともに勉学に励みましたが、兄弟共に田畑の仕事の手伝いをしなければ食べていけませんでした。後に妹の美和が誕生しています。

 

父 滄洲(そうしゅう)と著作

滄洲は伯父の日髙源助に学問の手ほどきを受けました。生来の勤勉家で学問を好み、参勤交代の随行時に江戸で古谷昔陽に、京都では皆川淇園に学び、帰国後は自宅に近所の子どもたちを集め、学問を教えていました。後に飫肥藩清武郷校「明教堂」を創建し、その後家族と共に飫肥に移住し、藩校「振徳堂」初代総裁となりました。
滄洲は朱子学者ではない古学、古注学の学者で、「人として生を受けたからには人の世の役に立つ人材を育てなければならない。」と考え、息軒にも多大な影響を与えました。滄洲は旅と風流を好み、赤江の城ケ崎俳壇の一員でもあり、旅をしては詩集を作っています。

滄洲詩集

滄洲詩集

滄洲の墓(飫肥)

滄洲の墓(飫肥)

佐代夫人

森鷗外の小説「安井夫人」であまりにも有名な川添佐代。わずか15歳の若さで息軒に嫁ぐことを決意した優しく賢く、そして美しかったお佐代さん。この小説は戦前の教科書には40回近く採択され、掲載されました。戦前生まれの人々はことごとく佐代さん、若しくはその夫である偉大なる学者、安井息軒を知っていました。安井息軒記念館のAVコーナーでは竹下景子さんの解説で、この「安井夫人」のDVDを視聴できます。

息軒の師

安井滄洲(そうしゅう 1767~1835)
息軒の師を語るときに欠かすことができないのはまず父の安井滄洲です。息軒は滄洲から学問の手ほどきを受け、生き方の上でも考え方の上でも多大な影響を受けています。

篠崎小竹墓

篠崎小竹の墓

篠崎小竹(しのざきしょうちく 1781~1851)
江戸後期の朱子学者。篠崎三島に入門後養子となり、尾藤二洲、古賀精里にも学びます。その後三島の「梅花社」を継ぎ、大坂で最も繁盛した塾にしました。書家、蔵書家としても有名で、息軒は小竹からたくさん本を借りて読んだようです。墓は大阪市北区天徳寺にあります。

古賀侗庵

古賀侗庵

古賀侗庵(こがどうあん 1788~1847)
肥前出身で後に昌平坂学問所儒官、古賀精里の三男。親子とも朱子学者ですが、息軒は昌平坂学問所入学に当たって、いずれかの儒者の門に入らなければならなかったこともあり、侗庵の門をたたきました。墓所は東京都文京区の大塚先儒墓地で、同地には儒官等の墓が約60基あります。

松崎慊堂

松崎慊堂

松崎慊堂(まつざきこうどう 1771~1844)
肥後国の農家の出身。僧侶となり学問に励み、浅草称念寺の寺主に養われ昌平坂学問所に入学。文政・天保年間佐藤一斎と並び称せられる大儒で、その実力は一斎以上と言われました。朱子学から考証学へと傾倒していき、息軒は憧れの感情を抱いて江戸遊学時代の後期に入門。さまざまな影響を受けました。 慊堂も初めて会った息軒の実力を見抜き、息軒を「古人」と認め、単なる弟子としてと言うより、重要なスタッフとして活躍しました。墓所は東京都目黒区長泉院墓地にあります。

 

息軒の同僚

塩谷宕陰

塩谷宕陰

塩谷宕陰(しおのやとういん 1809~1867)
江戸、愛宕山下に生まれました。16歳で昌平坂学問所に入学し、息軒と共に学んだ英才。その後息軒と共通の師である松崎慊堂の門をたたき、慊堂の推挙で遠江浜松藩主、水野忠邦の儒者となり、忠邦の天保の改革に際しても顧問役として進言を行いました。
息軒とは入学当初から親交を結び、宕陰は身長が高かったこともあり、二人が歩いている様子を「…宕陰は雲の上を歩き、息軒は草の下を歩いている。」と嘲笑されたエピソードもあります。
息軒が39歳で江戸に移住した後、息軒宅で「文会」を主催しましたが、宕陰、芳野金陵、木下犀譚、生前の藤田東湖等は同文会の主要なメンバーであった。特に宕陰とは親交厚く、宕陰は『明教堂記』や『読書余適』等に序文を寄せています。
その後、文久2年(1862)、息軒と宕陰、金陵は昌平坂学問所の儒官に任命され、「文久の三博士」と呼ばれるようになりました。

芳野金陵

芳野金陵

芳野金陵(よしのきんりょう 1803~1878)
下総国葛飾郡の儒医の次男として生まれ、父に句読を学び、亀田綾瀬に師事。私塾逢原堂を開き、駿河田中藩藩主本多正寛の求めに応じ儒者となり、藩政改革に手腕を振るいます。
文久2年、息軒、宕陰と共に昌平坂学問所の儒官に任ぜられ、明治元年には昌平学校教授となります。

木下犀譚

木下犀譚

木下犀譚(きのしたさいたん 1805~1867)
肥後国菊池郡の豪農の生まれ、名字帯刀を許され、時習館で学んだ後、昌平坂学問所で佐藤一斎に師事し、松崎慊堂にも学びました。ここで安井息軒や塩谷宕陰等と終生の親交を結びます。
帰国後時習館で教鞭をとり、井上毅等、たくさんの優秀な弟子を育てました。

藤田東湖

藤田東湖

藤田東湖(ふじたとうこ 1806~1855)
水戸学者藤田幽谷の次男として水戸城下に生まれます。藩主徳川斉昭の懐刀として、また水戸学の中枢として藩政改革を推進します。西郷隆盛からも尊敬される傑物で息軒とも無二の親友。息軒は東湖を介して斉昭から今後の幕政の在り方について諮問を受けます。安政の大地震の折、母を助けようとして圧死し、息軒も西郷も東湖の突然の死を深く悲しみました。

佐久間象山

佐久間象山

佐久間象山(さくましょうざん 1811~1864)
安井息軒は驚くほど洋学や蘭学にも詳しいことが分かります。息軒は恩師松崎慊堂の推挙で当時堀田正睦が老中を務めていた佐倉藩成徳書院の儒者となりました。当時洋学の教授は佐久間象山でした。その交流を想像するに難くありません。

佐藤泰然

佐藤泰然

佐藤泰然(さとうたいぜん 1804~1872)
同じく成徳書院の蘭学の学者は、佐倉順天堂から順天堂大学医学部につながる元を築いた佐藤泰然でした。泰然とも少なくとも何らかの交流があったと考えられます。儒者は医学にも精通している者が多く、生活のため儒医を兼ねている者も多数いました。

 

息軒の弟子たち

谷 干城

谷 干城

谷干城(たにたてき 1837~1911)土佐出身
土佐出身の谷は西南の役において熊本鎮台の司令官として、西郷隆盛率いる薩軍と対峙し北上を阻止しました。伊藤博文の内閣においては2度にわたり農商務大臣を務めます。
谷は息軒のことを心から崇拝しており、『隈山詒謀録(わいざんいぼうろく)』の中で、「我の人となりしは実に我が父と我が師(息軒)と我が妻の恩なり」と述べています。谷は息軒亡きあとも遺族を見守り、孫の小太郎を自宅の近くに呼び寄せ、息軒の貴重な資料の散逸を防ぐために尽力しました。

陸奥宗光

陸奥宗光

陸奥宗光(むつむねみつ 1844~1897)紀州出身
陸奥宗光は1862年、三計塾の扉を叩きました。極めて理髪で、息軒もすぐに陸奥の才能を見抜き、その成長を楽しみにしていましたが、宗光が三計塾の規則「斑竹山房学規」に再三背いたため、やむなく破門にしたとのことです。陸奥が息軒のもとで学んだ時期は長くはありませんでしたが、外交をはじめとする基本的な思想形成に極めて大きな影響を受けています。

井上毅

井上毅

井上 毅(いのうえこわし 1844~1895)肥後出身
飯田家に生まれ、井上家の養子になり、木下犀潭の塾に入り、その後藩校時習館で学びました。木下犀潭は安井息軒の親友で、毅は明治3年三計塾に入門します。毅はその後大久保利通や岩倉具視との知遇を得て重用され、大日本帝国憲法や教育勅語、皇室典範等の起草に関わることになりました。1888年第2代法制局長官を、1893年第2次伊藤内閣では文部大臣を務めました。

秋月種樹

秋月種樹

秋月種樹(あきづきたねたつ 1833~1904)高鍋出身
9代高鍋秋月家藩主種任の三男として生まれ、息軒や塩谷宕陰に師事。幼少時より優秀で「学問界の三公子」と呼ばれました。文久2年には幕府学問所奉行に登用され、昌平坂学問所儒官として恩師息軒や宕陰等を招き、さらに若年寄格と兼任となりました。さらに第14代将軍家茂の侍読となり、明治時代には息軒を明治天皇の侍読に推挙しましたが、息軒が高齢と病気を理由に固辞したため、自らが侍読を務めました。

三好退蔵

三好退蔵

三好退蔵(みよしたいぞう 1845~1908)高鍋出身
高鍋藩士の家に生まれ、藩校「明倫堂」で学んだ後安井息軒に師事しました。その後慶應義塾に入塾し、卒業後司法省に入りました。出世し、初代検事総長を経て大審院院長となります。退官後は弁護士となり、足尾鉱山の鉱毒事件解決に尽力するなど、「法の番人」と呼ばれました。

平部嶠南

平部嶠南

平部嶠南(ひらべきょうなん 1815~1890)
飫肥藩清武郷中野に、和田重寛の子として生まれ、郷校「明教堂」に入校し、安井滄洲や息軒の薫陶を受け昌平坂学問所でも学びました。その後息軒の勧めもあって、飫肥の名家、和田家に養子に行きます。持ち前の勤勉さと才能で飫肥でも出世し、飫肥藩最後の家老を務めます。明治になってからも県からの依頼を受けて『日向地誌』などをまとめました。

阿萬豊蔵の墓

阿萬豊蔵の墓

阿萬豊三(あまんとよぞう 1810~1876)
飫肥藩清武郷中野に生まれ、安井父子の薫陶を受け、昌平坂学問所では古賀侗庵に師事します。帰国後は明教堂の教授として地域の教育を支える一方、地頭所の参政となって仁政を行い、用水路を開発したりして人々の生活を向上させました。領土の紛争などの際は藩で最も頼りになる人物として粘り強く交渉し、解決に導いています。後に振徳堂の教授となり、学制改革に手腕を振るい、晩年は沓掛に住みました。

小倉処平

小倉処平

小倉処平(おぐらしょへい 1846~1877)
飫肥藩士長倉喜太郎の次男として生まれ、小倉家に養子に入りました。三計塾に入門し、息軒に師事し、帰国後は振徳堂の句読師と明治3年、小村寿太郎を伴い途中長崎に立ち寄りました。その後共に上京し、寿太郎を大学南校(東京大学の前身)に入学させ、自らは同校の少舎長として貢進生制度を建議して実現させ、後に大学権大丞となりました。1871年には英仏にも留学しましたが、西郷隆盛が下野すると小倉も大蔵省を辞して帰国し、飫肥騎兵隊総監として転戦し、最期は延岡の和田越えで自刃しました。「飫肥の西郷」と呼ばれ、人望が厚く優秀でしたが32歳の早すぎる死でした。

河原順信

河原順信

河原順信(かわはらじゅんしん 1848~1922)
安井息軒が1868年、足利郡領家村(現在の埼玉県川口市)の息焉舎に疎開した時に、藤助という名前で年限などを限って奉公した人物です。直に息軒の教えを受けました。同年7月に三計塾に入門し、その河原順信と改名して、一生を領家村の子弟の教育に捧げました。何度も国のためにと仕官を勧められましたが、決して従わず、意思を貫き今でも川口の住民からは息軒と共に尊敬を集めています。

北有馬太郎の墓

北有馬太郎の墓

北有馬太郎(きたありまたろう 1828~1862)
筑後久留米で生まれ、息軒に入門、本名は中村貞太郎と言います。三計塾では塾頭を務めるなど息軒からも信頼され、息軒の長女須磨子と結婚し、いと子と小太郎、二人の子供に恵まれます。久留米で真木和泉と交わり、武蔵の国で塾を開いていましたが、清川八郎をかくまい、須磨子や子どもたち、更には息軒に害が及ぶといけないと考えて離縁し、妻子を息軒に委ねて自らは獄中で非業の死を遂げました。

安井小太郎

安井小太郎

安井小太郎(やすいこたろう 1858~1938)
上述の北有馬太郎の長男として生まれ、父の死後祖父息軒に引き取られました。振徳堂や三計塾に学び、その後島田篁村、草場船山に学んだ後、明治15年に東京大学に入ります。北京大学堂、学習院、一校、大東文化大学などで教鞭をとりました。「最後の儒者」、「漢学会の泰斗」と呼ばれました。一校で小太郎から学んだ岩切省太郎は極めて幅が広く、奥の深い先生だった回顧しています。