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知の巨人 安井息軒

安井息軒4つの偉大さ
1.学者として
- 朱子学者以外から初めての昌平坂学問所の儒官になる。(古学、古注学、考証的手法)
- 儒学のみならず法学、洋学、医学等にも精通した極めて奥深く、幅の広い学者である。
- 塩谷宕陰(しおのやとういん)、芳野金陵(よしのきんりょう)と共に文久の三博士と呼ばれる。
- 息軒の学識の深さは中国(清)や韓国(朝鮮)でも知られ、日本随一の学者と言われた。
- 息軒をはじめ父滄洲、孫小太郎の書籍や資料等約7,000点が慶應義塾大学の「斯道文庫」に「安井文庫」として大切に保管され、今日でも研究が行われている。
2.教育者として
- 清武「明教堂」、飫肥「振徳堂」、江戸「三計塾」、そして「昌平坂学問所」で藩や地方のみならず国を支える優秀な人材を育てた。
- 弟子の数はおよそ2,000名で、谷干城や陸奥宗光、井上 毅、平部嶠南、小倉処平、阿萬豊蔵、河原順信、雲井龍夫、北有馬太郎など、そうそうたる弟子たちがいる。
- 明治2年には息軒のもとを訪ねてきた勝海舟と山岡鉄舟から明治天皇の侍講を依頼された。
- この頃息軒の下に藩主(知事)や現役の官僚らが次々と入門し、息軒から法学や儒学の思想、学問の方法などを吸収し、大きな影響を受け、法治国家建設や日本の急速な近代化へとつながった。
3.政治アドバイザーとして
- 第14代将軍家茂に謁見。老中らとは日常的に意見を交わし、アドバイスをしていた。
- 水戸学の中心人物、徳川斉昭から今後の幕政の在り方について意見を求められ、考えをまとめて上奏し、深く感謝された。お礼に直筆の書を拝領した。
- 飫肥藩に対しても、藩主伊東祐相(すけとも)や最後の家老となった平部嶠南(きょうなん)との深い信頼の絆に基づいてさまざまなアドバイスを行い、藩の財政や人々の生活の改善に大きく貢献した。
4.郷土貢献そして日本発展への貢献
- 飫肥藩の長年の悪習「間引き」を禁止させた。
- 藩の財政や人々の生活向上のため、さまざまな情報を収集し、自ら足を運び、書にまとめて藩に伝えた。藩は即刻現地に技術者を派遣し、実行に移させた。(二期作や養蚕)
- 自らも苦しんだ天然痘の予防接種(牛痘法)についても紹介し、感染の収束に貢献した。
- 敬老への取組についても進言し、今から150年以上前に実現させた。
- 深く広い見識に基づいて優秀な人材を育て、国や地方の発展に大きく貢献した。
息軒の教え
三計の教え
一日の計は朝(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮の時にあり
何事も初めが肝心であるという考え方で、「今日という日は二度と戻らない。だから一日一日を、その日その時を、大切にしっかり勉強しなさい」という教えです。
半九の精神
百里の道をゆくものは九十里をもって半ばとす
百里を行く者は、九十里を半ばと考えるべきだ。最後の十里が難しいという意味で、事を始めるのはたやすいが、成し遂げるのは難しいことのたとえ。
宮崎市清武文化会館「半九ホール」の名前の由来になりました。
苦学時代の和歌
息軒の生涯
年号 | 年齢 | 内容 |
---|---|---|
1799 | 0 | 旧暦1月1日、飫肥藩清武郷中野に儒学者安井滄洲の次男として生る。 |
1812 | 13 | 耕作畑での手伝い時、いつも経書(儒学の本)を持参していた。 |
1816 | 17 | 父から題をもらい、月明かりをたよりに、一晩で百首の和歌をよむ。 |
1818 | 19 | 父と初めて2人で延岡へ旅し、一緒に漢詩をよむ。(延岡紀行文『卯の花』) |
1820 | 21 | 10両のお金を持って、大坂の篠崎小竹(しのざきしょうちく)に師事し、蔵屋敷の一室で自炊。3年間苦学。(仲平豆で切り詰め) |
1823 | 24 | 帰国後、父を霧島温泉に行かせ、留守を守った。 |
1824 | 25 | 江戸(東京)の古賀洞庵(こがどうあん)に師事し、昌平坂学問所(昌平黌)に入所。昌平黌で親友の塩谷宕陰(しおのやとういん)等との交流を開始。 |
1826 | 27 | 飫肥藩主伊東祐相(すけとも)の侍読(主君に書物など用いて講義を行う役)を兼ねて江戸藩邸勤務を命じられ、4月古賀塾を退き、8月あこがれていた松崎慊堂(こうどう)の塾に入門。 |
1827 | 28 | 4月松崎塾を退き、5月藩主と一緒に飫肥に帰国。 岡の小町といわれた川添佐代(当時15歳)と結婚。そのいきさつは森鷗外の「安井夫人」に詳しい。 8月清武郷の学校である「明教堂」が開設され、父とともに助教授として教育にあたる。 |
1831 | 32 | 飫肥藩校「振徳堂」が開校。父滄洲が総裁(責任者)兼教授となり、息軒が助教に就く。 33歳 飫肥藩で赤子を殺す「間引」を止めるよう藩主に進言し、悪い風習を廃止させる。 |
1835 | 36 | 父滄洲が68歳で没す。飫肥安国寺に葬られる。 |
1836 | 37 | 勉学のために1人で江戸に出発する。 |
1837 | 38 | 6月幕府の学問所である昌平坂学問所に入寮。学問所の斉長となる。 |
1838 | 39 | 3月一時帰国。6月許しが出て藩職を辞し、家族とともに江戸に移住する。油津から江戸までの旅の様子を記した紀行文『東行日抄(とうこうにっしょう)』を著す。 |
1839 | 40 | 旗本の家を借り、三計塾を開く。塾のきまりである、「班竹山房学規(はんちくさんぼうがっき)」11ケ条を定める。 |
1840 | 41 | 松崎慊堂宅で水戸藩主斉昭(なりあき)側人の藤田東湖(とうこ)と出会う。 |
1842 | 43 | 松崎慊堂の推薦で下総佐倉藩(老中 堀田正睦)の儒者になる。 飫肥地方大洪水。台風等の被害軽減できる2期作を奨励する。 |
1846 | 47 | 文会(儒学やその解説、さらには外国の様子、政治のあり方等、志を持った友人達との勉強会)が盛会。主宰:息軒、木下犀潭(きのしたさいたん)、塩谷宕陰ら気鋭の学者が参加。 6月1日 浦賀に米艦状況視察に出る。 |
1847 | 48 | 房総、相模、伊豆の海岸を巡覧し、「海防私儀(かいぼうしぎ)」を著す。 |
1849 | 50 | 上州の蚕業を視察し、飫肥に養蚕製糸を伝える。 |
1852 | 53 | 藩の決まりとして、飫肥家老の平部嶠南を通じて、飫肥藩の子どもたちに種痘を実施する。 |
1853 | 54 | 水戸藩主徳川斉昭より今後の幕政の在り方を問われ、外交・内政等を書にまとめ、見事に応える。 |
1855 | 56 | 徳川斉昭から息軒に「足食足兵民信之矣」の書を賜られる。 |
1862 | 63 | ・1月3日妻佐代が亡くなる50歳。高輪の東禅寺(たかなわのとうぜんじ)に葬られる。 ・9月将軍徳川家茂(いえもち)に拝謁。 ・12月、塩谷宕陰、芳野金陵(よしのきんりょう)と共に、幕府の御儒者(昌平黌の儒官として教授)となり、文久の3博士と言われた。(息軒が朱子学派以外からの初めての登用。) |
1863 | 64 | 2月幕府直参(じきさん:将軍家に仕えた旗本・御家人)就任。 |
1864 | 65 | 2月福島県白河郡塙(しらかわぐんはなわ)の代官(63,900石の天領)に任命される。 8月息軒、高齢と病気を理由に願い出て免官となる。 |
1865 | 66 | この頃、国内では攘夷封港論から勤皇と佐幕の衝突を繰り返し、各地で戦いが続く。 |
1868 | 69 | 戊辰戦争を避け、3月13日川口市領家村の豪商高橋善兵衛家の新宅に家族や門人数名で疎開。(4月官軍に江戸城を明け渡す。)11月まで領家村に疎開し、毎日『北潜日抄』(ほくせんにっしょう)を書く。 11月息軒著書『左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)』出版のため、彦根藩井伊直憲の別邸に移る。 |
1869 | 70 | 3月勝海舟と山岡鉄舟から明治天皇の侍講を依頼されるも辞退。 徳川家に申し出て飫肥藩籍に戻り、家老上席として、藩主祐帰(すけより)の師範となる。 |
1870 | 71 | 三計塾生136名となり、最大を数える。 |
1872 | 73 | 元旦に「瓦全」の書を書く。 『論語集説』全刻なる。 |
1876 | 77 | 9月23日東京土手三番町の自宅で亡くなる(77歳)。千駄木の養源寺に葬られる。(最後を看取ったのが大奥の侍医や大正天皇の治療を勤めた漢方医浅田宗伯で、死因は胸の病気「澼飲症」であった。) |
明治期の安井息軒
足利郡領家村への疎開
「内憂外患」の時代、さまざまな改革の効もなく、ついに幕府は滅んでしまいます。幕臣として江戸時代を終えた息軒、息軒の弟子には勤王も佐幕もいます。三計塾内で争いが起きてはと案じた息軒は、弟子の勧めに従って足利郡領家村(現在の埼玉県川口市東領家)の豪農、髙橋善兵衛の弟宅に9か月間疎開をします。
息軒はこの家を「息焉舎」(そくえんしゃ)と名付けます。この9か月間の縁で、二つの市は「安井息軒顕彰川口市宮崎市交流事業」で結ばれ、現在でも交流が行われています。
再び江戸(東京)へ 三計塾の再開
川口に疎開していた息軒にいちはやく声をかけたのは彦根藩の井伊直弼の次の当主、直憲です。息軒の書いた『左伝輯釈』を費用は藩が負担するので、是非とも藩邸に来て欲しいというのです。こうして息軒は彦根藩邸のお世話になることになります。
そこにやって来たのは?
ある日息軒を訪ねて大物がやってきます。それは勝海舟と山岡鉄舟でした。そして息軒にお願いがあると言うのです。尋ねてみると、何と明治天皇の侍講になって欲しいというのです。しかしながら息軒もかなり年をとり、身体も目もだいぶ弱っていたので、丁重に断ります。

勝海舟

山岡鉄舟

明治天皇
明治に入って三計塾の入門者最大に!
息軒の身体や視力が弱っていくのに反比例して、三計塾の名声は高まり、入門者は日に日に増えていきます。息軒は儒学はもとより国学、洋学、そして法学にも強いオールマイティの学者だったため、たくさんの弟子たちが入門してきました。その中には現役の官僚や知事、世子たちもたくさんいました。法をしっかりと整備し、新しい国や地方を創っていくために息軒の教えが必要だったからだと考えられます。明治3年には136名の弟子が入門します。
また息軒は学問の仕方、学び方を自らの姿で弟子たちに示しました。そして自らはオールマイティでありながらそれを弟子たちに強要することはなく、自分の得意な分野で活躍すればよいと考えていました。ですから息軒の門下からは新しい明治の時代を支えていく多様な弟子たちが花開き、活躍していきます。
「瓦全(がぜん)の書」
明治5年、1872年元旦、息軒は「瓦全(がぜん)」と書きます。さてこの言葉の意味は?
安井息軒のお墓の秘密!?
安井息軒は20番目の三計塾に当たる土手三番町の広いお屋敷で亡くなります。病状を気遣って、息軒のもとにはたくさんの弟子が訪れます。その中で一番の文章家である川田 剛に碑文を、一番の書家であった日下部東作に浄書を、廣羣鶴に刻字を依頼します。さらに碑銘は清国の学者であった応宝時が見事な篆書を送ってきます。息軒の墓碑は当時の東アジアの一流の結集なのです。息軒の墓は東京千駄木の養源寺にあり、記念館にはその拓本があります。
安井息軒の主な著作
儒学関係 | 『論語集説』、『左伝輯釈』、『毛詩輯疏』、『孟子定本』、『十三経注疏』、『周禮補疏』、『書説摘要』、『戦国策補正』 |
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法学関係 | 『菅子纂詁』、『菅子纂詁考論』 |
紀行文等 | 『志濃武草』、『観風抄』、『東行日抄』、『読書余適』、『続読書余適』、『江山余情』 |
国防関連 | 『海防私議』、『靖海問答』、『料夷問答』、『外寇問答』、『軍政惑問』 |
小論 | 『兵学小議序』、『再熟稲種法』、『蝦夷論』、『養蚕私録』、『弁妄』、『鬼神論』、『睡余漫筆』 |