旧宅の歴史
江戸時代後期、寛政11年(1799)1月1日、安井息軒はこの家に生まれます。父は滄州、飫肥藩士でした。母楚也は江戸遊学中に、兄清渓は大坂遊学中に亡くなりますが、妹は途中で長倉家に嫁ぎ、佐代はこの家の嫁となりました。この家は安井家の居宅でしたが、初期の段階では父滄州はこの家で近所の子弟に学問を教え、塾の役目も果たしていました。息軒32歳の時、一家で飫肥に移住するまではここが居宅でした。飫肥に旅立つ時この家は隣の弓削家に委ねられました。
後に長女須磨子が子どもたちを伴い清武に帰郷した際に売却しました。この家はその後、大正9年に再度売却され、何とこの家は主屋のみ解体され、一度清武川の近くに移築されてしまいました。それを知った清武村は大正12年、主屋を買い戻し、敷地を半九公園として整備することを企画。有志の寄附を得て、公園は昭和4年に完成し、人々に親しまれました。
その後紆余曲折を経て、発掘調査がなされ、本来旧宅があった場所に、極力元の材を活かしながら、「国指定史跡安井息軒旧宅」の整備がなされました。さらに令和元年度、茅葺屋根等の保存修理がなされ、現在に至っています。

昭和初期の頃の旧宅(藁葺き)

平成初期の頃の旧宅(瓦葺き)

平成初期の頃の旧宅(東面)
間取り
間取りは発掘調査と古老の記憶をもとに復元されました。

各部屋

上座
いわゆる客間ですが、滄州がこの家で教えていた時代は、学問の進んだ弟子はこの部屋で学んでいました。

下座
そこまで学問の進んでいない子弟はこの部屋で学問に励んでいたと考えられます。

書斎
田舎にしては珍しく、この家には書籍がたくさんありました。しかしすべてが難解な漢籍や俳句等でした。息軒は兄清渓と共に父の手ほどきを受けていたと考えられます。安井家が飫肥に移住する際、安井家には後2棟があり、息軒の書斎も別にあったとのことです。

納戸
昼間はここ納戸と、下屋が貴重な家族のスペースでした。

下屋
ここで家族は質素な食事をしていました。当時はちゃぶ台ではなく、一人一人のお膳
がありました。

かまや
ここで楚也や佐代は食事を作っていました。

廊下
安井家は人気の塾でもありましたので、この廊下には手習いの子どもたちであふれていたことが想像されます。子どもたちの声が聞こえてきませんか?
庭園の石碑

息軒先生誕生地

徳川家達書 息軒先生誕生地

安井息軒 顕彰碑

先哲の遺愛の梅も・・・(日髙 正作)

息軒先生手植梅

息軒先生誕生地 建設の碑

湯地翁の碑

宮日 新観光地百景の碑「半九公園」
梅
周辺散策

湯地家長屋門
江戸時代の上級武士の家に多用された長形の門。門の両側には家臣が住んだり、馬小屋として使用されたりしたとされます。

和田家旧宅
典型的な武家屋敷の門構えが残っていて貴重です。飫肥藩最後の家老を務め、明治になってから地誌の編纂に尽力した平部嬌南はここで生まれ、息軒の勧めもあって、飫肥平部家の養子となりました。

中野神社
天長2年(824)の創建とされ、長年「中野八幡」と呼ばれてきました。応神天皇、神功皇后、神武天皇の母君が祀られ、伊東祐堯も清武城で戦死したこともあり、配祀された伊東家所縁の神社でもあります。左手の建物は宮崎学園短期大学です。

伊東家僑墓
清武郷の住民が盆や彼岸、正月などの墓参のために飫肥まででかけなくてよいように、分骨祭祀して建立された墓です。飫肥伊東家初代の伊東祐兵から十二代祐丕に至る歴代飫肥藩主の板碑形式の僑墓です。

安井家墓地
中野神社の東側、旧文永寺跡にあります。清武に兵法指南役として派遣された清武初代朝宣から第9代、恭一に至る9代の墓があります。