安井息軒関連年表(簡易版)
以下の年表は、当館が販売している『安井息軒関連年表』(200円)に基づきます。
和暦年号 | 西暦 | 年齢 | 内容 |
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寛政11 | 1799 | 0 | 旧暦1月1日、飫肥藩清武郷中野に飫肥藩士安井滄洲の次男として生まれる。 |
文化9 | 1812 | 13 | 家計を助けるために畑仕事をする合間に、持参した経書(儒学の経典)を読む。 |
文化11 | 1814 | 15 | 家にある書物を読み尽くす。 |
文化13 | 1816 | 17 | 父から題をもらい、月明かりをたよりに一晩で百首の和歌を詠んだ。 |
文政1 | 1818 | 19 | 父と初めて2人で延岡へ旅行し、一緒に漢詩を詠む。(安井滄州『卯の花』) |
文政3 | 1820 | 21 | 都於郡へ初めて一人旅をし、紀行文を書く。(『志濃武草』) ○城ヶ崎の商人たちが出してくれた10両(現在の130万円)で大坂へ遊学し、朱子学者の篠崎小竹に師事する。飫肥藩の蔵屋敷に間借りし、3年間苦学する。(「仲平豆」) |
文政4 | 1821 | 22 | 兄の清渓が26歳で死没し、息軒が嫡男となる。 |
文政6 | 1823 | 24 | 清武に戻り、父を霧島温泉に送り出し、留守を守る。。 |
文政7 | 1824 | 25 | 江戸(東京)へ出て古賀洞庵(こがどうあん)に入門し、昌平坂学問所に入寮する。 ○塩谷宕陰と友人になる。交友は生涯続いた。 |
文政9 | 1826 | 27 | 飫肥藩主伊東祐相(すけとも)の侍読(家庭教師)となり、江戸藩邸勤務を命じられる。 ○古賀塾を退塾して、日本漢唐訓詁学の鼻祖松崎慊堂に入門する。 |
文政10 | 1827 | 28 | 松崎塾を退塾して、藩主に従い飫肥藩へ帰郷する。 ○「岡の小町」と謳われた川添佐代(15歳)と結婚する。(森鷗外『安井夫人』) ○清武郷校「明教堂」が開校し、父滄州が教授に、息軒が助教に就任する。(塩谷宕陰『明教堂記』) |
天保2 | 1831 | 32 | 飫肥藩校「振徳堂」が開校し、父滄洲が総裁(責任者)兼教授に、息軒が助教に就任する。 ○父子で清武郷から飫肥城下へ転居する。 ○藩命を帯びて九州を巡覧し、報告書を提出する。(『観風抄』) |
天保3 | 1832 | 33 | 「間引き」(嬰児殺し)の風習を禁ずるよう藩主に進言する。徹底した厳罰主義と領民教育を通じて悪習の根絶に成功する。 |
天保5 | 1834 | 35 | 外浦新堤に反対し、上役に嫌われる。 |
天保6 | 1835 | 36 | 父滄洲が68歳で没し、飫肥の安国寺に葬られる。死に臨んで、剛直さを慎むように息軒に遺言する。(『滄州安井先生墓碑銘』、日向安国寺) |
天保7 | 1836 | 37 | 江戸へ行く。 |
天保8 | 1837 | 38 | 昌平坂学問所に再び入寮し、斉長(学生代表)に任命される。 |
天保9 | 1838 | 39 | 飫肥へ戻り、退職を願い出る。 ○許されて藩職を辞し、家族とともに江戸に移住する。(『東行日抄』) |
天保10 | 1839 | 40 | 三計塾を開く。(『三計塾規』・『班竹山房学規』) ○塩谷宕陰・木下犀潭・芳野金陵たちと「文会」を立ち上げる。後には藤田東湖や川田剛なども参加するようになる。 |
天保11 | 1840 | 41 | 松崎慊堂宅で水戸藩主徳川斉昭の側用人藤田東湖と知り合う。 |
天保12 | 1841 | 42 | 飫肥藩の押合方に任命されるが、辞退する。26石扶持を受ける。 |
天保13 | 1842 | 43 | 松崎慊堂の推薦で下総佐倉藩の藩儒になる。同僚に海保漁村がいた。 ○飫肥が大洪水に見舞われる。台風被害への備えとして稲の二期作を提言する。 ○『読書余適』を書く。 |
弘化3 | 1846 | 47 | 米国の東インド艦隊司令官ジェームス・ビドル(ペリーの前任者)が黒船2隻を率いて浦賀に来航する。息軒はこれを視察に行く。 |
弘化4 | 1847 | 48 | 房総・相模・伊豆の海岸を巡覧し、『海防私儀』(かいぼうしぎ)を著す。(『続読書余適』) |
嘉永2 | 1849 | 50 | 上州(群馬県)の養蚕業を視察し、飫肥に養蚕製糸の技術を伝える。 |
嘉永5 | 1852 | 53 | 振徳堂時代の弟子である飫肥藩家老平部嶠南に働きかけ、飫肥の子どもたちを対象に種痘を実施させる。 |
嘉永6 | 1853 | 54 | 水戸藩主徳川斉昭より、藤田東湖を介して時事を問われる。(国防論である『靖海問答』『料夷問答』『外寇問答』など) ○飫肥藩の用人格に任命される。禄百石。 ◉黒船来航 |
安政2 | 1855 | 56 | 徳川斉昭から「足食足兵民信之矣」(『論語・問政』)の揮毫を賜わる。 |
文久1 | 1861 | 62 | 長女須磨子の夫である中村貞太郎(北有馬太郎)が清河八郎の逃亡を幇助した罪で捕縛される。 ◯中村貞太郎(北有馬太郎)が獄死する。(没年は安井小太郎「小伝」に依る。1862(文久2)とするものもある。) |
文久2 | 1862 | 63 | 妻佐代が50歳で亡くなり、高輪の東禅寺に埋葬される。 ○14代将軍徳川家茂に拝謁する。 ◯老中筆頭の水野忠精の諮問に答えて、『時勢一隅』(東京都立大学図書館・水野家文書)を上奏する。(『時務一隅』)。○幕府の御儒者に任命され、昌平坂学問所の儒官となる。同時に任命された塩谷宕陰・芳野金陵とともに「文久の三博士」と謳われた。 |
文久3 | 1863 | 64 | 飫肥藩籍を抜けて、幕府直参となる。 |
元始1 | 1864 | 65 | 幕府の天領である白河(福島県白河郡塙)の代官に任命される。 ○高齢と病気を理由に願い出て免官となる。 ○『管子纂詁』を上梓する。これが後に清朝の応宝時へ届けられる。 |
慶応2 | 1866 | 67 | 『管子纂詁』を渡英する中村敬宇に托し、上海へ寄港した際に清国の然るべき儒学者にこの書を贈って、序文を寄せるよう頼んで欲しいと依頼する。中村敬宇は快諾し、これを上海の行政長官をしていた応宝時に渡す。(中村敬宇『記安井仲平托著書事』) |
明治1 | 1868 | 69 | 戊辰戦争を避け、領家村(埼玉県川口市)の豪商高橋善兵衛家の新宅に疎開する。(『北潜日抄』『息焉舎記』) ○『左伝輯釈』出版のため、彦根藩別邸へ移る。 ○この年から「息軒」という号を使い始める。(※江戸時代に弟子が書簡で「安井息軒先生」と記している。) |
明治2 | 1869 | 70 | 勝海舟と山岡鉄舟から明治天皇の侍講となるよう頼まれるが断る。(黒江一郎『安井息軒』) ○飫肥藩籍に戻し、家老上席として二十人扶持。飫肥藩主の世子祐帰の師となる。 |
明治3 | 1870 | 71 | 三計塾が最盛期を迎える。入塾者136名。 ○『左伝輯釈』の版木が完成する。 ○清国の応宝時より「『管子纂詁』序」が届く。発奮して『管子纂詁』改訂版を出版する。 |
明治4 | 1871 | 72 | 外務大丞の柳原前光が「日清修好条規」の協議に天津を訪れ、応宝時に『左伝集釈』を渡し、序文を乞う。応宝時は快諾して「『左伝集釈』序」を書く。 |
明治5 | 1872 | 73 | 『論語集説』の版木が完成、出版が始まる。 ○元旦の書き初めで「瓦全」と書く。(「瓦全」常設展示室) |
明治6 | 1873 | 74 | 『弁妄』を『教義新聞』で発表。同年のうちに島津久光の序文を得て出版される。また『弁妄和解』も出版される。 |
明治7 | 1874 | 75 | 清国の沈秉成が『論語集説』の序を書く。 |
明治8 | 1875 | 75 | 『睡余漫筆』を書き始める。 ◯英国領事館通訳士ガビンズが『弁妄』を英訳出版する。(同志社大学蔵『BEMMO』。) |
明治9 | 1876 | 77 | 9月23日、東京土手三番町の自宅にて、77歳で亡くなる。千駄木の養源寺に葬られる。死因は「澼飲症」。(川田剛『安井息軒先生碑銘』、浅田宗伯『安井衡死亡診断書』(当館常設展示室)) |