3つの偉大さ+
安井息軒は儒者です。「儒者」という職業は、①学者、②教師、③政治家の三つを一人で兼ねるものです。日本の歴史上、「儒者」と呼ばれる著名人はたくさんいますが、①学問、②教育、③政治の三分野全てで功績を残した儒者となると、そうはいません。そして息軒はその数少ない一人です。ここでは息軒の功績を振り返ってみましょう。
1.学者として+
- 「寛政異学の禁」以来、朱子学者以外で初めて昌平坂学問所の儒官に任命されました。
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島田篁村(1838-1898):安井息軒の如きは程朱学ではありませぬ。……此れらの人が昌平黌の教員となりましたは、異学禁制以来例なき事であります。[『本朝儒学源流考』]
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服部宇之吉(1867-1939):〔安井息軒〕先生古学者を以て此の選に与かりしは、蓋し異数の待遇となる。亦た以て其の名声の隆かりしを知るべし。[『漢文大系・四書解題』]
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- 塩谷宕陰、芳野金陵とともに「文久の三博士」と呼ばれました。(息軒の友人→)
- 儒学のみならず、洋学や政治学・農学・医学にも通じた極めて幅の広い学者でした。
- 息軒の学識の高さは、同時代の清国(中国)や李氏朝鮮(韓国)の学者にも知られ、「日本随一の学者」と称えられました。
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兪樾(1821-1907):先生の著に『管子纂詁』有り、余読みて之を慕ふ。[『日本竹添井井左氏會箋序』]
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黄遵憲(1848-1905):余 未だ東海を渡らざるに、既にして安井息軒先生の名を聞けり。江戸に来るに逮べば、則ち先生 歿して既に二年たり。相ひ見ゆるに及ばず。[『読書余適序』]
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金綺秀(1832-1892):吾聞く、「日本に安井先生有り」と。恨むらくは、帰期の已に迫れば相ひ見ゆるを得ず。(川田剛『安井息軒先生碑銘』)
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- 明治時代に入ってから著作が次々と刊行されました。それだけ明治の人が息軒の学問を求めたということです。(→息軒の著作)
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- 息軒の著作で江戸時代に出版されたのは『菅子纂詁』だけです。この本は中村敬宇(正直)の手で清朝の応宝時に贈られました。応宝時が序文を書いて送ってきたほか、兪樾もこれを読んでいました。(町田三郎「力作の管子纂詁」、『江戸の漢学者たち』収録)
- 『左伝輯釈』は明治4年に刊行されました。出版費用の1000両(現代の1000万円超)は彦根藩や延岡藩が負担しました。また清国の応宝時が「左伝輯釈序」を送ってきました。
- 『論語集説』は明治5年に刊行されました。本書は明治43年に息軒の『孟子定本』『大学説』『中庸説』を合刊して活版印刷で再版され、現在でも販売されています。冨山房の「漢文大系1」(税別9,500円、ISBN978-4-572-00063-7)がそれです。
- キリスト教の『聖書』を分析・批判した『弁妄』は、明治6年に島津久光の序文を得て出版され、すぐに和訳本が出版され、さらに明治8年に英国人ガビンズによって英訳本が出版され、英字新聞に欧米人による書評が掲載されました。
- 息軒が「天保の大飢饉」の直後の東北方面を視察して著した紀行文『読書余適』は、明治33年に駐日清国公使(今で言う駐日中国大使)黄遵憲の序文を得て刊行された後、漢文教材に採択され、一冊まるごと『読書余適』という教科書が刊行されました。
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- 息軒と父滄洲、孫小太郎(安井朴堂)という安井家三代にわたる蔵書・著作・草稿など資料約7,000点が慶應義塾大学附属図書館「斯道文庫」に「安井文庫」として大切に保管され、今日でも研究が行われています。
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- 安井文庫の目録としては、高橋智「安井家の蔵書について:安井文庫研究之二」(『斯道文庫論集』35・36)があります。
- 当館には、安井息軒の直筆原稿や息軒の書き入れのある蔵書を撮影したマイクロフィルム4万コマがあり、現在デジタル化を進めているところです。研究(ここでは論文を執筆することを「研究」と定義します)目的であれば、閲覧および印刷が可能な場合があります。詳細はお問い合わせ下さい。
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2.教育者として+
- 清武(宮崎市清武町)の郷校「明教堂」、飫肥(宮崎県日南市飫肥)の藩校「振徳堂」、江戸(東京)の私塾「三計塾」、そして幕府の最高教育機関「昌平坂学問所」で教鞭をとり、地方のみならず、国家を支える数多の人材を育てました。弟子の数は2000名以上にのぼります。
- 息軒は、弟子の名前と出身地・入門した年と月を記した『遊従及門録』という名簿を残していますが、そこには明治近代化を推進した人物たちが名を連ねています。
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- 政治家・軍人:陸奥宗光(1844-1897)、井上毅(1843-1895)、山内提雲(1838-1923)、谷干城(1837-1911)
- 学者・教育者:西村茂樹(1828-1902)、重野安繹(1827-1910)、相馬永胤(1850-1924)。
- 志士:雲井龍雄(1844-1971)、北有馬太郎(1828-1862)
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- 明治2年(1869)、勝海舟と山岡鉄舟が息軒のもとを訪ねてきて、明治天皇の侍講(家庭教師)になって欲しいと頼みにきました。息軒は高齢を理由に断りましたが、息軒が幕府と新政府の双方から尊重されたことが分かります。(→黒江一郎『安井息軒』)
- 明治に入ってからも、息軒の三計塾には藩知事や政府の官僚たちが次々と入門しました。実は三計塾の年間入門者が最も多かった年は、明治3年(1870)です。
- 弟子たちを介して、息軒の思想が明治日本の近代政策に影響を及ぼしている可能性も考えられるのではないでしょうか。(山口智弘「安井息軒の経世論」 )
3.政治アドバイザーとして+
- 第14代将軍家茂に謁見しました。昌平坂学問所の儒官となってからは、老中たちと日常的に意見を交わし、アドバイスをしていました。
- 水戸藩主で、海防参与として幕政にも参画していた徳川斉昭の諮問に答え、お礼として斉昭直筆の揮毫と葵の家紋が入った衣装を拝領しました。
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- この掛け軸と衣服の実物を、当館の常設展示室でご覧になれます。
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- 江戸へ移った後も、飫肥藩の用人格として藩政に参与し、藩主の伊東祐相や家老の平部嶠南に多くのアドバイスを行い、飫肥の財政改善や領民の生活向上に貢献しました。
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- 息軒が飫肥藩に行ったアドバイスは、『救急或問』にまとまってみえるほか、『安井息軒書簡集』(安井息軒顕彰会編)所収の平部嶠南宛の書簡から読み取ることができます。
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補足:郷土への貢献+
- 飫肥藩にて、長年の悪習だった「間引き」(嬰児殺し)の根絶に成功しました。
- 江戸へ移り住んでからも、飫肥藩のために藩の財政改善や領民の生活向上につながる様々な情報を収集し、自ら足を運んで検分したうえで、文書にまとめて飫肥藩に伝えました。
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- 息軒が飫肥藩に伝えた技術として、稲の二期作、養蚕業、乾燥野菜(芋の切り干し)があります。
- 宮崎市田野(飫肥藩清武郷田野)の「干し野菜」が「日本農業遺産」に認定されました。
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- 息軒自身も幼少期に罹患して苦しんだ天然痘の予防接種(牛痘法)が長崎に伝来するや、いち早くこれを藩に紹介しました。飫肥藩は領民に接種を義務付け、感染を収束させることに成功しました。
- 敬老精神を高める取り組みとして「養老典礼」を飫肥藩に提言し、実施させました。
- 宮崎の人材育成にも大きく貢献しました。
- 息軒が宮崎に残した優秀な弟子として、平部嶠南や阿萬豊蔵、小倉処平がいます。平部嶠南は飫肥藩最後の家老となり、阿萬豊蔵は文教の町清武の礎を作りました。また小倉処平は「飫肥西郷」と呼ばれた傑物で、小村寿太郎の師です。小村寿太郎は息軒の孫弟子に当たります。