息軒旧宅・展示品
湯島聖堂蔵「安井息軒の書」(複製)

安井息軒が元旦に詠んだ七言絶句を記したもの。掛け軸のオリジナルは、東京の湯島聖堂(昌平坂学問所)が所蔵している。
この漢詩を詠んだ時点で、息軒は水戸斉昭から下問を受けたことがあるとはいえ、民間の一私塾経営者に過ぎなかった。ここで「閑人(無位無官)」の気楽さを謳歌する息軒だが、この9ヶ月後に第14代将軍家茂に謁見し、年末12月には昌平黌儒官に任命され、「夢にも思わず」(安井息軒書簡集)と運命の急転に驚くことになる。そして、この漢詩を詠んだ二日後の一月三日、妻佐代夫人が亡くなる。享年51歳。森鴎外が『安井夫人』でモデルとした賢夫人である。そのことも、まだ息軒は知らない。

翻刻

千乘 萬騎 祝曉春
雪擁 金城 瑞氣新
椒酒 樓頭 寒自却
始知 至樂 在閑人
壬戌元日 雪 小飲樓上

書き下し

千乘 萬騎 あかつきの春を祝ふ
雪は金城をようして 瑞氣新たなり
椒酒 樓頭 寒さおのづかしりぞ
始めて知る 至樂の 閑人かんじんに在るを
壬戌元日 雪 樓上に小飲す

口語訳

夜明け前の薄明かりのなかを、諸侯たちが将軍徳川家茂公に新春のお祝いを申し上げるべく、大名行列を組んで陸続と江戸城へ向かう。

降り積もった雪が江戸城を取り囲み、城からは瑞祥の気が立ち上っている。〔年末に和宮親子内親王がご降嫁されたことで公武合体が前進し、将軍家による治世が安泰となったからであろう。〕

〔大名行列を眺めつつ、〕楼上で〔元旦に飲めば長生きすると言われる〕椒酒を飲めば、〔身体が温もり、〕寒さが自然と退いていく

〔彼らは官職に就いたばっかりに、元旦だというのに、夜明け前から寒い中を主君の登城のお供をしなければならないのだ。〕ようやく分かった。至高の楽しみは閑人(無位無官)の身の上にこそあると。

一八六二年(文久二・壬戌)元日。雪。楼上で〔友人たち数名と〕小さな酒宴を開く。