明治の息軒+
足立郡領家村への疎開
慶応3年(1867)、「大政奉還」によって江戸幕府はついに終焉を迎えました。幕臣として江戸時代の終わりを見届けた息軒でしたが、その弟子には勤王派も佐幕派もいました。明治元年(1868)となり、「鳥羽伏見の戦い」をきっかけに戊辰戦争が勃発、官軍が江戸へ進軍を開始すると、息軒は三計塾内で塾生同士が両派に分かれて争いを起こすことを案じ、弟子の勧めもあって、江戸郊外へ疎開する事に決めます。
疎開先を提供したのは領家村(埼玉県川口市東領家)の豪農髙橋善兵衛で、息軒は善兵衛の弟が建てた新居へ9か月間ほど疎開しました。息軒はこの仮住まいに「息焉舎」と名付け、『息焉舎記』を著しました。また9か月間の疎開生活を日記『北潜日抄』に綴りました。
これが縁となり、宮崎市と川口市の間では「安井息軒顕彰川口市宮崎市交流事業」が結ばれ、現在でも交流が行われています。
再び江戸(東京)へ 三計塾の再開
徳川方が無血開城に応じたことで、江戸市中は秩序を取り戻していきました。そんななか川口に疎開していた息軒にいち早く声をかけたのは彦根藩主井伊直憲でした。なんと息軒の書いた『左伝輯釈』を彦根藩の負担で出版させて欲しい、ついては校正作業のために彦根藩別邸に移って欲しいというのです。こうして息軒は彦根藩の世話になることにしました。
江戸に戻った息軒は、彦根藩の好意で彦根藩別邸内に部屋を借りて、三計塾を再開しました。たちまち入塾者が集まりました。三計塾は、明治時代に入ってからその最盛期を迎えようとしていました。
明治政府からの出仕要請
そんなある日、息軒を訪ねて大物がやってきます。それは勝海舟と山岡鉄舟でした。何と、明治天皇の侍講(家庭教師)になって欲しいというのです。しかし息軒はすでに70歳で当時の感覚ではかなりの高齢であったこと、また実際に足腰や眼も弱っていたこともあり、これを断ります。
明治に入って三計塾の入門者が最大に!
息軒の身体や視力は衰えつつありましたが、それに反比例するように三計塾の名声は日増しに高まり、入門者は増えていきました。息軒は儒者でしたが、儒学にこだわらず西洋の地理学や天文学を教え、数学の重要性を説き、何より政治顧問として幕政や藩政に関わった実務家でもありましたから、たくさんの若者が入門して息軒の弟子となりました。
弟子たちのなかには、現役の官僚や藩知事やその世子もたくさんいました。法制度をしっかりと整備し、近代的な国家体制を築いていくためには、息軒の学問が有益だと見なされたからでしょう。明治3年(1870)には新たに136名が入塾しました。
息軒自らは様々な分野に通じたオールマイティな学者でしたが、それを弟子たちに求めることはありませんでした。ただ自分の得意な分野を伸ばし、そこで活躍すればよいと考えていました。だからこそ三計塾は多彩な人材を輩出し、弟子たちは様々な分野に散っていき、活躍することになったのでしょう。
「瓦全(がぜん)の書」
明治5年(1872)元旦、息軒は書き初めで「瓦全」と書きました。あまり聞き慣れない言葉ですが、さてその意味はいったい何でしょうか?
「瓦全」とは「玉砕」の対義語です。「何もせず、無駄に保身し、生き長らえること。 失敗を恐れ、あえて挑戦せず平凡な結果に満足すること」という意味です。息軒はいったいどういった心境で、この二文字を選んだのでしょうか。
安井息軒の墓碑銘の秘密!?
息軒は、江戸へ出てから何度も引っ越ししています。その20番目の引越し先が土手三番町の屋敷で、息軒はここで息を引き取りました。
息軒の容態を案じて、たくさんの人々が息軒のもとを見舞いに訪れました。そのなかには、後に「明治の三文宗」に数えられる名文家の川田剛がいました。息軒は川田剛を病床に招いて、自分の墓碑銘を書いてくれるよう頼みました。川田剛は感激し、涙を流しながら承諾したといいます。
かくして碑文を川田剛が書き、それを現代書道の先駆者と謳われる日下部東作が浄書し、江戸随一の石匠と名高い広群鶴が刻みました。さらに碑額は清国から応宝時が篆書で書いたものを送ってきました。「安井息軒先生碑銘」は、まさに東アジアの一流の文化人の粋を集めた結晶なのです。
「安井息軒先生碑銘」の実物は東京の養源寺にありますが、記念館の常設展示室にはその拓本が展示されています。碑文は漢文で、しかも白文ですが、当館事務室には書き下し文と口語訳文を用意していますので、お問い合わせ下さい。